ル・ボナーの一日

あの日から14年

2009年01月17日

%E9%9C%87%E7%81%BD%EF%BC%91%EF%BC%94%E5%B9%B4.jpg 阪神・淡路大震災を体験し、あれから14年経った。 現在午前5時前でいつもはぐっすり眠っている時間だのに目が覚めてしまった。 地震があった1月17日5時46分を今年はブログを書きながら迎えることになった。 14年前のあの日は忘れない。 多くの人が亡くなり喜怒哀楽が過激に交差した濃密な時間がその後続いた。 その前年まで住まいは芦屋で、お店のある六甲アイランドまで通勤していた。 東京時代から飼っていたいた老犬と一緒に住める借家がその頃六甲アイランド内にはなくて、 あったのが芦屋の古い借家。 その雌の老犬・クークーが亡くなり六甲アイランド内に引っ越した翌年に震災。 住んでいた芦屋の借家近辺は震災の時一番死亡者の割合が多かった街で、 住んでいた借家も完全に跡形なく崩れ去っていた。 私たち家族4人が無事でいられるのは、クークーが導いてくれたのだと思っています。 そのクークーは芦屋山の手にある芦屋霊園のペット共同墓地に眠っています。 あの日の前日私は少し風邪気味で、仕事にも少し倦怠感を覚えていた。そして震災。 住んでいたマンションの14階の揺れは尋常ではなく、縦揺れが強烈で、 何が今起きているのかしばらく理解できなかった。 その後散乱した部屋の中で呆然と明るくなるのを待った。 窓から見える神戸の町のあちらこちらから火の手が上がっていた。 風邪気味の体調であることなどふっとんでしまっていた。 明るくなってすぐにお店の状況を見に行った。 お店は大丈夫だったけれど、六甲ライナーの高架線路は途中で落下していて、 唯一の本土とを結ぶ橋も一部断裂していて車では渡れない。ライフラインもすべて止まった。 しかし電気だけは数日で使えるようになった。 一週間ほど家族4人が暮らしてゆく手立てをこうじて、 その後私は営業どころでないショッピング街の工房で、 電気だけは使えたので夢中で2年分ほど抱えていたバックオーダーを作り続けた。 私の鞄職人30有余年の中で最も仕事に集中した半年あまり。 鞄を作るのが私の存在価値。その事をその時実感しながら夢中で作った。 不幸がいっぱいあり、不便な事多々あった。でも人と人が助け合い14年が経った。 私はあの時の過激な喜怒哀楽の日々の中で、神戸が好きになった。 ギリギリの状況下で本当が見えてくる。14年経っても強く思い出すあの日あの1年。

Le Bonheur (04:41) | コメント(3)

Comments

  1. yuko より:

    14年 ですね
     私は神戸の対岸、大阪泉大津で阪神大震災を迎えました。
    一瞬何が起こったのか・・・・・
    布団を頭からかぶって、過ぎ去るのを待っていました。
    幸いにも鉄筋の自宅は何の異常はなし。
    ただ、母の位牌が倒れていたのと、庭の燈篭の上の所が下に落ちたくらいでした。
    ご近所では、食器棚から食器が落ちて大変だったとか。
    すぐ、高齢の叔母達に電話をかけたのを今でも覚えています。
     大好きな神戸をTVで見て、ショックでした。
    短い間で復旧したものだと思います。
    神戸の人たちの頑張りに頭が下がります。
    Re:yuko さん
    ディープな神戸はあの震災以後薄まったのは確かですが、モトコウ・神戸メトロ・新開地と一昔前の神戸の風情残しています。京都・大阪・神戸と関西はそれぞれ違った個性を持った大都市があって素敵です。
    これからもハイカラ神戸であり続けて欲しいと思っています。庶民が街の風情を作ってゆくのだと思っているボンジョルノです。
                           ル・ボナー松本

  2. エアコンマン より:

    早いですね。
    当時、まだ、川西の北にある実家に暮らしてて、結構揺れたんですが、家にはあまり被害がなかったので、会社に行こうと駅まで行くと電車が止まってて、仕方なく家にかえってからTVで阪急や阪神高速が倒れてるのを見て、地震の被害を実感してました。あと、5km南に家があったら屋根が飛んでたかな。
    電車が通じてから、堺の工場に行くこともあったんですが、
    難波あたりから南は、なにもなかったかのような普通の日常がすぎていること。食べ物その他が普段通りにあって、まるで別世界でした。
    なんか起こってるなと感じ出すのは阪急の梅田駅から。
    やはり、実際に自分の街が壊れないと他人事になってしまうのかなとしみじみ感じたのを覚えてます。それと、TVという箱が映像を見せてしまうと、その時点から他人事を助長してるのかな、現実感をなくすのかなと思ったことを覚えてます。
    Re:エアコンマン さん
    そうですよね。テレビが報じると別世界の事のようだと私も思います。実際に体験しないと共感出来ないのが人間だと思います。ただあの震災後の歳月を共有した人たちには特別な事でした。町は驚くほど復興しましたが、心には14年前の体験が今も鮮明に記憶の中に生きています。これからも忘れる事はないと思います。あの体験以後私は神戸が好きになり、終の棲家にしようと心に決めました。素敵な町です。
                                 ル・ボナー松本

  3. つきみそう より:

    数日前から、やたらにカラスがうるさいと思っていました。タンスの前で並んで寝ている妻と私の顔と顔の間に救急箱が落ちてきた音で目が覚めました。
     最初は京都府南部の震度が凄いなどと言っていて、神戸でも燃えてます、というニュースだったのが、時間の経過とともにこれは大変だということになっていきましたね。その間、現地の皆さんは恐怖のどん底にいらっしゃったのですね。
     三宮や元町あたりで歩道のタイルが補修されているのを見ると、あぁあの頃は波打っていたなぁとか、エレベータで待ってくれる人が多いので神戸の人は本当に優しくなっているんだなぁとか、そういうことを思います。
    Re:つきみそう さん
    だめですタンスの上に重いもの置いては。それにタンスは壁に固定しないと危険です。震災を経験してから私たちは家具のある部屋では寝ないようになりました。タンスの上に救急箱なんてもっての外であります。
    山陽本線が開通してすぐに実家の加古川まで行った時見た火災後の兵庫・長田あたりは、焼夷弾で丸コゲになった街のような惨状で、今でも目に焼き付いています。
    私にとって神戸を愛おしく思った決定的瞬間でした。素敵な街になっていって欲しいと思っています。神戸的な個性のある素敵なお店が増えたら神戸の街はより魅力的になると思っています。元町のP&Mさんたちとより魅力的な神戸になっていく一部分を担えたらいいなと思っています。
                               ル・ボナー松本

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