ル・ボナーの一日
私の親父
2005年11月28日
私の親父は森林関係の研究をする公務員でした。人付き合いの悪い性格が災いして、最初は県庁に居て、そのあと林業試験場に行き、最後は親父のために作ったような緑化センターの初代所長という肩書きで公務員を終えました。親父は品種改良と害虫の研究を主にしていました。品種改良で思い出すことは、芋ほどの大きな栗を長年かけて作ったことがあり、それを実験台として食べたことがありました。これがひじょうにまずく、マロングラッセにしたら何とか食べれるのではと試してみても、やはりまずいものはまずく、結局実用化されませんでした。ハンドボールほどのイガイガが育つ栗の木は今も夜久野高原の緑化センターの森にあると思います。害虫研究では、親父の研究室に数えられないぐらいの虫の入っている試験管があったことがおもいだされます。天橋立に行ったとき、松くい虫が大発生し天橋立の松が危険にさらされた時、陣頭指揮をとって駆除し被害を最小限に抑えたと自慢気に話していました。
怒るとメチャクチャ怖い親父でしたが、休みの日には弁当を持って家族であちこちの山に登りました。行きたくなくても親父が行くと言えば行かなければならない絶対君主のような親父でした。そんな親父が死んで15年になります。
勉強嫌いの私は親父の思い描いた理想の息子とは正反対の人生を生きてきたように思います。親不幸な息子でした。
私の息子は、高校時代担任の先生に親の後を継いで鞄職人になればいいのにと言われていたのに、不思議な事に私の親父と同じ森林関係の研究者の道を進んでいます。
息子が学会で論文を発表するのを親バカの私は聞きに行ったことがあります。その時私は私の親父のことを思いました。もし生きていたら孫のこの姿を一番喜んだのは私の親父であったと思う。
親父は普段はいつも作業着を着ていましたが、出張の時はスーツに、冬は誂えたウールのコートを着て出かけて行きました。お土産はいつもハイクラウンチョコレートでした。
そのコートを今レトロ好きの孫が気に入って着ています。誂えた年が内ポケットに刺繍されていて、昭和31年とありました。私が生まれた年に誂えたコートでした。
Le Bonheur (21:53) | コメント(4)
Comments
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筒井さま
いいお話ありがとうございます。
思い出は一人ひとりの人生の宝物だとおもいます。その横に思い出の品が寄り添って入る様な気がします。その品がル、ボナーの鞄であれば幸せです。 -
記事もコメントも、やさしい気持ちにさせるエピソードですね。物は生き物のように、色んな出来事を静観し、年月経て、「物」から「宝物」へと変貌していくこともあるんでしょうね、きっと。
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うーん、懐かしくて涙が出るわ。
親父は息子に対して、その思いを
引き継ぐようなロマンチックな部分が多分にあると思います。
私も息子が生まれた年に、妻に内緒で時計を購入しています。オーバーホールをしながら、息子に手渡す日を望んでいます。また私の父が5年前亡くなった時、父の書棚から革のペンケースと万年筆が出てきました。使ってはいなかったようですが、年月がかなりたっていたそのペンケースには、私のイニシャルの刻印がありました。