ル・ボナーの一日

ル・ボナー物語 後編

2015年11月25日

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ル・ボナー物語 後編

 

 個人で鞄作りしている職人は、お店を持つ事が一番だと思っていた。だって作った品を上代でそのまま売る事が出来て、生産効率の悪い職人には利益幅を大きく取れるのだからと。でもパソコンが普及して、そうとも言えない状況になった。ネットを通じて売れば家賃などの固定費いらずで、上代販売が可能になった。その上接客という時間が省略されて、生産時間に多く費やせる。確かにこの方が小規模な製造小売り業には良い方法かもしれない。でもお店を持てて本当に私たちの場合は良かった。多くの人と生身で知り合う事が出来た喜び。このお店も十九年目を迎える。特に夫婦二人だけのル・ボナーになってから九年の間に多くの人たちと知り合う事が出来た。この事は私たち二人にとってル・ボナーのカタチを残す事と同じレベルで、大事な大事な宝物。だからお店を持てて良かった。

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 1993年に神戸の埋め立てて作られた人工島・六甲アイランドの、安藤忠雄事務所の設計したショッピングビルの片隅に、革製品のお店兼工房の「アウム」を出店した。今は30坪以上になっているけれど、当時は8坪のお店。それでも十分幸せな空間だった。その8坪をお店と工房で半分に区切って使っていた。今の店舗部分がその8坪。なので現在はその後増床した12坪が工房部分だ。二人しか作業しないのだから、もっとお店部分を広くすると普通思うでしょうが、これが私たち二人の最大の贅沢。この仕事場が一番心休まる場所。隣りの革&鞄の在庫置き場兼裁断場所兼自転車展示室?へも直接行けるように、セメントブロックの壁をぶち抜いてドアを付けたいなと今思案中。

  地方都市・神戸で、それも神戸の中心の繁華街からは遠いこの人工島・六甲アイランドでお店をして売れるだろうかという不安はあった。でも窓越しに四季折々の変化を感じながら鞄作り出来るこの場所が気に入った。7年前の聖蹟桜が丘のお店も窓越しにいろは坂が見えた事が素敵だった。一日の変化を感じ取れない室内での作業は無理な私たち二人です。

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 オープン当初はオーダー中心のお店として始めた。革小物からトランクまで何でも受けた。それも一点作りなのに既製品並の価格で。すると思っていた以上に注文があり、すぐに2年待ちのバックオーダーが溜まった。しかしそんな風にお客様の要望に応えるモノ作りは、私たちは向いていないと途中から感じ始めた。贅沢な事なのかもしれないけれど、私たちは私たちのカタチを生み出す事が、この仕事を今まで辞めずに続けて来れた理由なのだと気づいた。

 そんな事を悶々と考えながら目の前の完成予定日が迫ったオーダーをこなす日々。そんな時阪神大震災が起きた。その時私たちは14階に部屋を借りていて、びっくりするぐらい揺れた。テレビが部屋の端から逆の端まで転げ、食器棚は何度もジャンプしたのだろう、入れていた食器が全部落下してそれが食器棚の下敷きになって重なって割れている。ピアノもジャンプしていた。明るくなって急ぎお店に行ったら、お店の被害は軽微だった。しかし電気も止まり全てが停止状態。しかたなく実家のある加古川に家族で避難した。しかし何もしない日々がこれほど苦痛だとは思わなかった。電気だけは使えるようになったという情報を聞き、いてもたってもいられず急ぎ機能不全の六甲アイランドへ戻った。そして電気だけは回復した工房で、ひたすら鞄作りする日々が始まった。お客が来る訳ない状態だけど、2年分のバックオーダーがある。それをひたすら黙々と作り続けた。その時の仕事への没頭具合は今まで経験した事のない集中力。私にはどんな時も最後は鞄作りしかないのだとその時痛感した。おかげで2年分のバックオーダーは半年ほどでこなしてしまえた。あの時の鞄作りへの集中力は何だったんだろ。

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 あの時期、震災だけでも大変な危機だったのに、オウム事件のダブルパンチ。あの頃のル・ボナーの屋号は「アウム」。その上麻原彰晃の本名は松本で、、関連企業ではないかと噂された。「オウム真理教だろぉー!」と怒鳴り込んで来た輩もいた。全然関係ないのに、まったくもって迷惑至極。それで後に屋号を「ル・ボナー」に改名。フランス語で「幸せにな〜る」。商標登録もしています。

 その後八坪のお店は隣りのスペースも借りて20坪に。そして落ち着くといけません。またまた私の上昇志向?が顔を出してきます。今度は自社工房生産システム。プチ・エルメス的な革製品作りに挑戦したいと。職人希望の若者を一人前の職人に育て、自社内での生産規模を大きくし;オーダーでの制作も受けながら既成の製品のラインナップの充実したブランドを目指すという構想。これが成功すれば古い体質の鞄業界に少しは刺激を与える事が出来るのではとも考えた。

 しかしこれがまたまたル・ボナーを窮地に追いやった。最大時で三人の職人希望の若者を雇い入れた。自分の経験から給料はちゃんと払いたかった。その事で毎月80万ほどの経費が必要になる。それに見合う製品を作り出せれば良いのだけれど、5年ほど続けたがそれが最後まで出来なかった。

 修行という名目で小遣い程度の給金で働かせ、技術を習得したらいつか独立してやるぞと思わせる緊張関係の中からでないと、経済的にも成立する職人は育たないのだとその時思った。まあどちらにしても私の甘さが主原因。皆で同じ目的に向かって力を合わせる文化祭の乗りで仕事出来たら良いなと思っていたのだけれど、私の能力では無理だった。それでその試みは終わらせた。借金だけが残り、2003年の初春からはハミと二人のル・ボナー。

 9年前からル・ボナーは二人でやっています。従業員がいた頃に販売チャンネルを増やす為に、三宮に二店舗目も出したけれど閉めました。三宮のお店の方が売り上げが出る可能性が高く、六甲アイランドのお店を閉めて神戸の中心地の三宮のお店の方だけにしようかとも考えたのですが、売り上げ以上に心地良さを優先して六甲アイランドのお店の方を選びました。六甲アイランドという人工の街は、今では益々寂しい街になり商圏としては最悪な街となっております。一緒にこのショッピングビルに19年前に出店したお店の中で残っているのはル・ボナーを含めて数件。夜ともなると高架を走る六甲ライナーからこのショッピングビルを見ると、ル・ボナーの灯りだけが見え、まるで野中の一家屋みたいなどと言う人もおります。でもこの場所が居心地良い。そしてそんな惨状を持ち前の応用力駆使し逆利用。おかげさまで3年前に隣りの空き店舗もル・ボナーになって、現在の広さ30坪のスペースになりました。でも世の流れは奇跡?を生む。19年前に借りた8坪の家賃より、今の30坪の家賃の方が安いという現実。なのでモノ作りしている人で、個人的に集客出来る自信があってお店を探している人がいたら、是非このショッピングビルはいかがでしょうか。安藤建築のオシャレなセメント打ちっぱなしビルは空き店舗いっぱい。お仲間募集中〜。

 二人になってから借金返すまではよく働いた。どうも人はお尻に火が付くと、能力以上の力が発揮出来るようだ。格好つけてたら焼け死んじゃうよぉ〜。しかし落ち着くといけません。今度は老化です。二人とも勉強しなかったから目は抜群で、私など自動車免許の書き換え時の目の検査では、後ろに並んでいる距離からでも検査用の一番小さな記号が見えるほど。その反動で老眼が極度に進んだ。これが鞄作りの制作スピードに大きく影響する。若い人には分からないと思うけれど、これは職人人生において一大事です。本当に数をこなせなくなる。

 そんな事もあり今はサンプルを主に作り、それをこれまで右往左往しながら鞄職人を35年間やって来た間に知り合った、信頼出来る職人さんに量産をお願いして作ってもらっている。

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 この業界は瀕死の状態だ。少しでも工賃が安い海外に生産が移っていて、メイドインジャパンと記してあったとしても、海外で大部分の作業を終わらせ、最後の組み上げだけを日本でするというパターンもいっぱいある。なので日本に残る量産職人さんも丁寧な仕事をする職人さんより、数を上げられる職人さんが大事にされる。でも賃金の安い海外生産と比較して考えること事態が無理がある。日本人の丁寧な職人仕事を次世代まで残す為にその仕事に見合った工賃を支払い、その結果価格が上がったならその価格でも売っていける価値を生み出す工夫をすればいい。上から価格が決まっていくのでなくて下から価格が決まって行って、それでも価値を感じてもらえる鞄作りが出来たなら、日本の鞄業界の未来が見えてくるはず。

 そんな事を思いながら新作のカタチを二人で考えています。まずル・ボナーらしいカタチを創造しパターンを起こす。その過程で部材のチョイス。そしてサンプル制作。途中で修正点が生じたら、その都度型紙を作り直しパーツを裁断。そして出来上がったサンプルに不満があれば作り直すか没にする。そのサンプル作りをする過程では、量産する時にスムーズに仕事がこなせるであろう製造過程も考えながら作る。そして作ろうという最終サンプルが出来たら、量産をお願いする職人さんにもう一度サンプルを作ってもらう。その結果数を作る側の希望を聞き、頼む私たちの方の要望と折り合いをつけた後量産を頼む。職人さんによって得意不得意がそれぞれ違う。なので長所を最大限活かせる職人さんを、カタチによって変えて頼む。工賃は職人さんの要望通り払う。そこで値切ったら良いものが生まれない。その事で売れるであろう希望価格に収める事が出来ない場合は、利益を圧縮して希望価格に近づける。

 ル・ボナーのカタチの量産をお願いする現在のモノ作りの手法には賛否両論ある。本来は独立系鞄職人なのだから、自身で作った品を販売していくべきだと言う人もいる。それも一理あると思うけれど、作りたいカタチの創造と制作スピードの均衡が取れなくなった今の私たちにとって、これからも死ぬまでこのお店をここで続けられる方法はこれがベストと考えた。ル・ボナーのカタチを私たち二人が今より歳を取った後でも作り続けて行く事が出来る為に。だって俺たちは貧乏過ぎて、国民年金も払えない時期が長くてギリギリ25年で月の支給は4万円也。なので一生働かないといけません。

 量産をお願いするという現在のル・ボナーの生産方法において、在庫過多、売り上げ規模の拡大、雑務が増える、といったリスクはあるけれど、35年間二人で鞄職人を続けていて今が一番平和で楽しい日々を過ごしていると二人でよく話す。

  我が家には大事な家訓がある。経済的にどん底の時にハミが東京府中の借家の襖に書いた言葉。「心の貧乏人になるな!」。

 私が右往左往しながら鞄職人の道を彷徨した年月を共に歩いた相棒のハミ。金銭的に苦しい時多々あった年月だった。精神的にも相当追い込んでしまった年月でもあった。でも鞄作りが好きだったから彼女は一緒に迷路を歩いて来てくれた。喧嘩もしょっちゅうした。「出て行くならあなたが出て行きなさいよ。このお店は私がしますから。」と捨て台詞。好きな鞄をゆっくり作れる環境をハミに作ってあげたいと今思っている。間違いなく私よりハミは本物の鞄職人だ。一緒にこの道を35年歩めた幸せを思う。

Le Bonheur (10:08) | コメント(4)

Comments

  1. すぎうら より:

    鞄談義2、昨日circleさんで購入しました。
    今年の夏、お店にはお盆の夕暮れ時に家族でふらっと寄らせていただきました。
    残念ながらハミさんにはお会いできなかったのですが、お店の感じとか窓から見える外の景色とか、文章を読むと一層リアルに伝わってくる感じがします。
    また鞄やお財布を見に、買いに寄らせていただきたいと思っています。
    ル・ボナーさんの製品や松本さんの文章に出会えて良かったです。私の人生、愉しくなりました。ありがとうございました。
    これからの益々のご活躍を祈願しています。

  2. いちファンです より:

    感動しました。これからも頑張ってください!

  3. 年老いたパパ より:

    初めまして。いつも拝見しております。もう還暦がすぐそこ。そんな、私は、7歳と9歳の娘と3人暮らしをしている父子家庭のパパです。今回、このル、ボナー物語を読み感動し、励ましをもらい、なんて素敵な話だろうと思いました。今から40数年前、探したけど見つからないボストンバッグを自分で作ったのがきっかけで趣味で鞄づくりをしてきました。ブランクの時期も有りました。海外での長い生活も有りました。このまま働いていても収入が無く成ると思い、悩み、この鞄づくりで収入を得たいと日々戦っている自分にとって励まして頂けました。あきらめる訳にはいかない。もっと若い時にカバンに力を入れられたらどんなに幸せだっただろうと、今思います。目の事もよく分かります。手縫いで初め、今はミシンと格闘が続く毎日です。なんて馬鹿な事をいって、素人がそんな簡単に!! 十分承知しております。そんなに簡単のものでは無い事を。その事はこの物語を読んで、心が折れるぐらいに感じております。無謀な事に挑戦している私にとって素晴らしい、ご経験のお話でした。
    有難う御座いました。何かを書きたくてコメントさせて頂きました。こんどお店に伺います。有難う御座いました。

  4. HAYASHI より:

    先日この本を購入させて頂いて「ル・ボナー物語」を読んだばかりです。
    当時どんな鞄を作っていたのだろう、ベレー帽の形状は?そして35年以上作り続けているグループとは…と思っていたら、載っていました(笑)
    ル・ボナー物語、なんだか映画を見ているようでした。
    一枚目のふたりの写真は最高の一枚ですね!!

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