ル・ボナーの一日

ル・ボナー物語 前編

2015年11月24日

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「鞄談義Ⅱ」完成を記念して前回の鞄談義ファーストの私の書いた部分の一部を画像を加えてアップ。

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ル・ボナー物語 前編

 

 この本を作るのは古山万年筆画伯が言い出しっぺだ。去年の「古山画伯と行くスペイン・スケッチ旅行」の折、「鞄好きが集まって自費出版で本を出そうよ」と言い出した。それに何人かの鞄好きが半強制的?に参加した。しかし古山万年筆画伯の裏付けのない?情熱には感心させられる。損得を考えたら近寄らない方が無難だ。でも楽しいから関わってしまう。そして原稿の締め切り日が来て原稿を送った。そしたらボンジョルノに頼んでいた原稿用紙五十枚分の「業界物語」がないよぉ〜んとメールが。「エ〜そんな枚数俺書くのぉ〜?」。急ぎ打ち合わせまでの数日の間にその長文を書き終えないと。で今書き始めております。今回の本の参加者は。私以外は皆鞄大好きおじさんたち。それも相当偏った皆様方だ。なので作り手代表としてユーザーが知らない鞄業界の実情を書きたいと思う所存です。と言ってもそんなに知っている訳ではない。でも手作り鞄職人したり、鞄ブランドの企画で勤めたり、量産の鞄縫製職人したり、自分のブランドを問屋のネットワーク使って売っていたし、独立系鞄職人(これは私がブログで使い始めた造語)もしているし、革製品輸入業もやろうしているマルチタイプの鞄職人人生を三十五年続けて来た。だいたい職人はその道一筋の口数少ない頑固タイプというのが世の相場。そうでないボンジョルノ松本が、自分の半生を振り返りながら、原稿用紙五十枚書いてみようじゃありませんか。

 

 1975年19歳の僕は悶々としていた。高校時代勉強らしきことはまったくしていなくて劣等感だけの若者だった。小学校の頃はそれなりに優等生で成績優秀だったけれど、それ以後はひたすら下降線を辿った。唯一高校時代に没頭出来たのは読書。授業中も読んでいて、普通の小説なら一日2冊ほどを読む。劣等感を払拭する生き方を僕なりに探していたのかもしれない。でも試験勉強はしなかったし出来なかった。なので一浪して予備校生だった時も、神戸の須磨海岸で一日中本を読んで過ごしていた。当然大学進学は無理な事で、悶々と自分の未来を憂いでいた。

 そんな時姉の買っていた「ノンノン」というファッション雑誌を見ていたら、手作りの人たちの特集記事に目が止まった。焼き物、家具、アクセサリー、鞄、革小物など。学歴など関係ないモノ作りの世界。それも当時手作りブームで、原宿の表参道界隈ではそんな作りが洗練されていないヒッピー(日本ではフーテン)くずれの人たちが作って売るアクセサリーの露店が何軒も出店しているという。これならいけると思い東京へ。それも軽薄軟弱な僕は、その雑誌で紹介されていた中で、素人でもすぐに作れそうでアットホームな感じがした赤坂にあった鞄作りのグループへ。

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 その頃夢だけで生きて行けると思っていた。だから無給ならばいいけどと言われ。喜んで加わった。19歳の春だった。その頃その手作り鞄のグループは、赤坂の小さなビルの半地下の駐車場をしきった部分を工房にして鞄を作っていた。その工房も不法建築だっただろうし、トイレはそのビルのダストボックスの収集部分に水洗トイレを設置していた。いつも上からゴミが落ちて来ないかと心配しながら用を足していた。私が加わって4人。鞄作りは直ぐに覚えた。35年以上経った現在本拠地を青山に移し、今も変わらず同じレベルの鞄をそのグループでは作り続けている。これは凄い事だ。それも規模拡大しながら。

 そこには2年ほどいた。貧乏だったけれど楽しかった。途中から給料も少額出るようになった。しかし1977年結婚を期に独立する事になった。相棒は文化服装で本格的な鞄作りを学んだ四歳年上のハミ。僕の裏付けない夢を信じて一緒にスタートした。世の中バブル景気に浮かれ始めた頃。ユーミンの曲が街には流れていた。しかし私たちはそのバブルの恩恵を得る事なく過ごし、バブル景気は知らぬ間に終わった。

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 お金もなければコネもない。問屋に大量に卸して売ってもらう生産力もない。今ならネットを使って売る方法があるけれどその時代にはない。ないものだらけで、あるのは体力だけ。それで鞄屋さんへ卸していた。その頃一日16時間仕事していた。しかし鞄の価格はお店で売っている他の大量生産の日本製の鞄並みの上代でないと置いてもらえなかった。その頃作っていてよく売れたのが手縫いのトランク。戦前のトランクより作くりが甘くていい加減な部分多くあるトランクだけれど、その頃世の中になかったからよく売れた。戦前はこれより小さなトランクが大卒の新入社員の初任給ほどしたという。だから採算が成り立つ鞄。それを僕の手元に入るのが3万円ほどで作っていたのだから売れるよね。でも働けど働けどわが生活楽にならずの主原因。そんな日々を27歳頃まで続けた。その頃そんな鞄作りしていた私たちだった。素人に毛が少し生えただけのそんな僕たちの作る鞄を、置いてくれたお店や買ってくださったお客さまたちに感謝しています。そんな日々が僕たちを育ててくれた。

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  転機は1983年の27歳の時に訪れた。東京多摩の聖蹟桜ヶ丘のショッピングセンターにお店を出さないかという話しが舞い込んだ。ショッピングセンターの二階の三坪ほどの本当に小さなお店。でも保証金なしで自分たちのお店が持てる。願ってもない話しだった。今までだって四畳半の仕事場で二人作っていたのだから、共有部分の通路も利用すれば十分工房兼用のお店でいける。小さいけれどかけがいのないお店を持つ事が出来た。

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 そしてこの時期多くその後も親しくしている仲間や先達と知り合う。僕たち二人は世間知らずで技術力が劣る鞄職人だった。しかし多くの人たちと知り合い教わり、それを反芻し少しずつ成長した。このお店を紹介してくださったインディアンジュエリー作家の村田ご夫婦は今も最も感謝するご夫妻。手縫いの藤井さんにもこの時期に村田さんに紹介され、知り合って衝撃を受けた。靴業界の御意見番の長嶋さんとも、この同じショッピングセンターにその時期企画されたアシックスの「ペダラ」ショップを出店していた縁で親しくなった。そんな先達たちに教わり助けてもらいながら僕たちの鞄も成長した。ジブリの「耳ををすませば」はまさにその地域が舞台。あのアニメを見るたびにあの頃の楽しく充実した日々を懐かしく思い出す。 

  しかしそれも3年ほど。どうも私は欲望が強いようだ。成城駅前にお店を出さないかという話しが飛び込んで来た。あの高級住宅地の成城です。田舎者で世間知らずな僕には、ステップアップのチャンスだと思った。丁度二人目の子供が生まれ産休中のハミに相談なしに勝手に店舗移転を決行した。そして半年で失敗。全て失って一から出直し。

 その後長嶋さんの紹介で、ワールド、三陽商会、リーバイス、オンワード樫山など名だたるアパレルメーカーの仕事をしたけれど、その当時自分たちで作る手段しか知らなかった私たちは、その業界の生産量とスピードにあたふたするばかりだった。今なら一財産が作れていただろうけれど。

 三菱商事のフットウエア事業部のアドバイザーみたいな事もしたりして、日本に入ってくる前のアメリカブランド「コーチ」にも少し関わった。まるで世間知らずで来た私には別世界。でもこの時業界の生産システムや鞄のビジネスの流れを初めて知った。でも経済的な部分ではこの頃どん底だった。

  そんな仕事つながりで老舗鞄問屋からオリジナル高級鞄ブランドを出さないかという話しが舞い込んだ。展示会ごとに新作を出してというもので、日本に高級鞄を根付かせるという趣旨に乗った。ブランド名「アウム バイ ヨシキマツモト」。

 そしてその時初めて高級輸入革問屋の「サライ商事」を紹介してもらった。革好きな私ではあったが、それまで使った事のない素晴らしいヨーロッパの革たちと、その時初めて出会った。牛革の場合半分に裂いた半裁というアメリカ原皮を使った日本の革しか知らなかったそれまでの私には、伸びる縁と呼ばれる部分を原皮段階で取り払い使える部分だけなめしたこのヨーロッパ皮革文化の奥深さに感動を覚えた。その後もその時使っただけで、お店を持つまでは良いのは分かっているけれど高価で使えなかったけれど、今は大半がサライ商事経由のヨーロッパ皮革を使っている。使えるようになったのが人一倍嬉しくて、いつも在庫過多状態のル・ボナー。

 しかし自分たちで作るという事は相も変わらず同じだったので、忙しいばかりで実利は同じで少ない。その時強く思った。お店が欲しい。上代がそのまま収入になったあの聖蹟桜ヶ丘時代が一番良かった。今ならあの頃より相当技術も進歩したから、もっと良いはず。でもお店を出す為の資金が捻出出来なくて、現状の中で右往左往。

 その頃作っていた鞄が枠を使ったカタチ。ボストンバッグにダレス。それに棒屋根や大割れなどクラシックな風情の品々。手間が正比例でかかってしまう品々。

  そんな日々が続く中で生活は厳しさ増すばかり。それで窮して就職する事にした。就職する会社は大手商社がバックアップして生まれた会社。世界で通用する鞄を軸にトータルに商品を展開する、今までになかった日本のブランド。デザイナーに国際的なモデルを経て、その後ヨーガレールのサブのデザイナーをしていた林ヒロ子さんを擁して始まった。そこの企画担当としてデザイン画から、パターンを起こしサンプル作ってメーカーさんと打ち合わせする仕事。日本の鞄ブランドの大部分はデザインだけで、後はメーカーさんに丸投げする。その場合微妙な案配をコントロールする事が出来ずに特別は生まれにくい。そんな手間をあえてかけて生まれた鞄たちは特別な輝きを持った高級既成鞄だった。

 その時パターンの奥深さと面白さを教えてもらった。一緒に企画を担当していた金田さんはパタンナーとして天才的だった。元々洋服のパタンナーだった氏は、生地と違って厚みも計算に含み込まないといけない革製品のパターンは面白いという。三角関数を駆使して生まれたグッドデザイン賞をもらったラグビーボール形状のバッグたちのふくよかさは、氏の能力なしには生まれなかった。ル・ボナーの内縫いのバッグのふくよかな表情を生み出すパターンと縫製方法はあの時の影響大。その金田さんが作ったイタリア製のシホンベルベット素材で作ったベレー帽の形状はその才能を遺憾なく発揮している。突起が連続したこの形状が竜が天に向かうような一パターンで二つのパーツを裁断し縫い合わせてこのカタチが生まれる。端切れがいっぱい出そうな形状なのに出ないで作れる。これには感服した。

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 そんな風に今思い返しても、あの時が一番面白かった。お金の心配せずに鞄作りに没頭出来た。その上予算規模が十分あって全て豊かで楽しいクリエーティブな日々だった。多くの事を吸収出来た。初めてメーカーさんに量産をお願いする道筋も、その時初めて実際に経験した。3年後に黒字変換出来ればこの魅力的な職場にずっといられるはずだった。しかしバブル景気は終焉を迎えつつあり、バックアップしていた大手商社が倒産し、日本から世界へ飛び立てたかもしれないそのブランドも終わりの日を迎えた。そして私も元の個人の職人に戻った。

  そんな事態になっても、免疫力が人一倍蓄えられた過去を持つ私はへこたれない。いくつかのメーカーさんとのつながりが生まれ、その一社の仕事を請け負う事にした。その頃凄く売れていたレノマのセカンドバッグの縫製。裁断された部材が持ち込まれ、縫製のみに全力投球。数は200個で一個3000円也。手慣れた職人さんだと一ヶ月でこなす仕事だそうだ。という事は月60万。これは良いと飛びついたけれど、それはあくまで手慣れた職人さんの話しで、量産初心者の私は、一日16時間労働で2ヶ月とその後それの検品後手直しで、計3ヶ月ほどを費やした。その後も縫製量産仕事を何度か繰り返したが、私には厳しいと感じた。そんな経験もしたので、今量産を頼んでいる職人さんには敬意を心底感じながらお願いしている。

 その後また他の問屋さんを通してオリジナル鞄の卸しを再開。バーニーズ・ニューヨークではよく売れたなぁ〜。少し普通の生活が出来始めた頃大きな決断が待ち受けていた。その頃二人でよく将来について話していた。お店を持つという事を諦めて卸しだけでこの仕事を続けて行くのなら、大好きな信州の古民家を借りて、そこで仕事しながら田舎生活したいねと。でもその夢は叶う事はなかった。

 兵庫県の実家に戻った時見た新聞に「神戸海手・六甲アイランドでテナント募集」の記事。それも私の大好きな安藤忠雄建築事務所設計のショッピングビルへのテナント募集ではありませんか。これは応募する価値は十分ある。東京を離れ地方都市・神戸の人工島で待望のお店を持つ事には不安があったが、売れなければ卸も続ければなんとかなると決断した。その後の開業資金集めは大変だったけれど、これで七年のブランクを経て待望の工房兼お店に辿りついた。7年前に比べて技術的な蓄えも多くの先達から吸収しているし、もう失敗は繰り返さないと誓いながらお店を神戸の離れ小島に得た。

Le Bonheur (08:59) | コメント(3)

Comments

  1. sho より:

    大変興味深く読ませて頂きました。多くの困難を乗り越えて今日があるのですね。勇気を頂きました。
    話しが変わりますが、男性向けの小型のショルダーを作って頂けませんか?
    何処にもこれだというものが見つかりません。容量はピッコロをふた回りくらい大きくしたサイズです。
    パパスだと大き過ぎ、ピッコロだと小さ過ぎる時があります。そんな時にフォーマルでもカジュアルにも使えるショルダーがあると助かります。いつか作って頂けることを、勝手の楽しみにしております。

  2. Le Bonheur より:

    オーダーでの製作は現在休んでいます。定番で作っているオブレとかペーパームーンはその中間サイズになりますが。

  3. jam より:

    同じ時代の同じ空気を吸いながら生きてきた者として、感慨深く読ませていただきました。目前のことに必死で生きてきてふと振り返ると、確かに自分の歴史が存在するのですね。何故か無性に松本さんの顔が見たくなってしまいました。

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