いつもはお客様少ないル・ボナーだけれど、一昨日、昨日と多くのお客様の来店があり、ありがたい師走の2日間でした。やっと師走らしくなった感じして、今年の最終日まで全力疾走で乗り切る思いの二人です。今年の最終営業日は29日を予定しています。
先日の午前中にハミと話していました。一番懐かしく思う住んだ場所は何処かな?と。やはり私は府中です。その午後偶然その府中からのお客様の来店あり、20年前まで私たちが住んだ町の今を懐かしさから色々お聞きした。私たちが住んでいた頃の府中とは大きく変わっているようだった。でもいつの日か府中にはハミと一緒に訪れたいなと思っています。府中には10年住んでいました。府中は貧乏だった私たちとって優しい町でした。目黒から移り住む時は、多摩地区で一番お洒落な町「国立」を目指しました。しかし家賃が安い一軒家は国立では見つからず、結局何処の駅にも遠い国立に限りなく近い府中市武蔵台という場所の古い一軒家で鞄工房兼住居として10年過ごしました。雨漏りし、隙間風が入る家だった。その場所で鞄作り続けた。府中市は大きな工場などが多くて法人所得が人口の割りに多く入るからなのか、市民の負担少なく、それでいて福祉や子育てに対して充実した地方自治体だった。隣りの国立とは逆の貧乏な子育て家族に優しい町だった。なので国立ではなくて府中で良かった。今住んでいる神戸市が特別に個人に対して高負担低福祉な都市だけに、余計に私たちのあの時代にあの町に住んだ事が幸運だった事を実感する。
ネットなどない時代だったから、お店を持てない独立系鞄職人は卸しするしかなかった。作った鞄を持って都内の鞄屋さんを回り置いてもらった。そういった卸しの場合、価格の決定権はショップ側に有り、シビアな市場価格を強いられる。合理的な生産方法を経験する事なく鞄職人になった私たちは長時間労働でそれをカバーするしかなかった。あの時代と同じ内容の長時間作業を今の私がすると、きっと過労死するだろう。しかしそれでも生活はいつもギリギリだった。そんな日々でも、夢だけはいっぱいあった。作りたい鞄のカタチもいっぱいあった。子供達が眠った夜中、仕事の合間にハミと作りたいカバンのカタチを話すのが好きだった。府中市主催で年4回あった「朝市」は助かった。早朝6時から2時間足らずの野菜などの食料品の販売の中で、作った在庫の革製品を売った。それが思いの他好評で、月の生活費の半分ほどの金額がその2時間ほどの間に売れた。府中に住んでいる間、欠かさずその朝市には出店していた。そんな時も家族4人一緒だった。子供達は格好悪くても一生懸命生きてる親をイヤでも見続けた。
そんな府中のぼろ家には、一回り若い連中が多く出入りし、無給で仕事を手伝ってくれた。日々の生活にも困る状態で鞄作っている私たちのところに来ても得なんてない。このぼろ家から大学に通う者もいた。借家の庭に不法にプレハブの工房を建てていたので、土が見える庭は四畳半ほど。そこにブロックで炉を組んで、食材をみんなで持ち寄って12人ほどでバーベキューパーティーした事もあった。あの時ハミが作ったひき肉ほんの少々、大部分野菜のハンバーグは大好評で、今でも我が家のハンバーグは同じレシピ。あの頃無償の連帯感を感じた連中とは今も親しくしている。エツゾーは不意に訪ねて来てくれたり、店長は関西出張時には我が家に泊まり、コロンビアに居るタクちゃんとはスカイプでつながっている。
夢だけあって余裕なんて全然なかったあの府中での日々。でも懐かしく思い出される。もう同じ日々は過ごしたいとは思わないけれど、精一杯ヘトヘトになりながら生きたあの日々が懐かしく思い出される。
いいお話ですね。苦しかったのに懐かしい、のですね。ボンジョルノさまはそんなに古くからずっとハミさまと一緒に過ごしてこられて幸せですね。自分もひとりぼっちで辛かったときに今の家内と一緒に過ごせていれたらなあと思いますよ。これからも二人三脚で相手を労りながら人生を楽しんでゆかれることでしょう。
Re:ボンジョルノより
楽しかったというのが正しいかもしれません。
経済的事情で、カバン作りを何度も辞めようと思いましたが、
続けていて本当に良かったと思います。
二人で一人前の私たちなので、
これからも二人で鞄作り続けて行きます。